20120728 知られざる放射線研究機関 ABCC/放影研
  • 12 年前
報道特集より。

原爆の悲惨さを訴えて今も読み継がれているマンガ「はだしのゲン」。
放影研の前身であるABCCを描いた場面が出てくる。
「なにもくれず、まるハダカにされ、白い布をかぶせられ、血を抜かれて体をすみずみまで調べられた‥」「アメリカは原爆を落としたあと、放射能で原爆症の病気が出ることがわかっていた‥ わかっていておとしたんじゃのう」「戦争を利用して、わしらを原爆の実験にしやがったのか」
はだしのゲン作者の中沢啓治さんは自身も被ばくしている。母が亡くなったとき、ABCCが来て、母親の内蔵をくれと言われたという。

ABCCによる被爆者調査の背景を物語る文書がある。
「アメリカにとってきわめて重要な放射線の医学的/生物学的な影響を調査するには、またとない機会だ‥。」
1947年、広島でABCCが設立された。
ABCCが当初もっとも重視したのが遺伝的な影響だった。
広島、長崎で生まれた被曝2世、約7万7000人を調査。
担当部長は死産や生まれた日に死んだ赤ちゃんも調べたという。

そんな放影研に福島県郡山市から依頼があった。
大久保利晃理事長が市の健康アドバイザーとして招かれたのだ。
しかし実は放影研の調査対象は高線量外部被ばくだけ。
福島でいま起きていることは、これとは異なり、内部被ばくだ。

内部被ばくについては、ABCCの時代から調査の対象外としてきた。
だがABCCが一時期、内部被ばくの調査に着手していたことが、取材でわかった。
当時の生物統計部長だったウッドベリー氏は、内部被ばくの原因となった黒い雨の本格的な調査を主張していた。
そして1953年から1年ほど、内部被ばくの予備調査が続いた。
その調査の担当者だった日本人の研究員、玉垣秀也氏は、黒い雨をはじめ、残留放射能の調査を命じられた。
しかし上司は衛生状態の悪化が原因だとして調査を打ち切った。
そしてABCCから放影研に変わったあとも、内部被ばくの調査は再開されなかったという。
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